ジャパニーズウイスキー生みの父「竹鶴政孝」とは?波瀾万丈な生涯と本人推奨の飲み方を紹介

ウイスキー好きの方なら、竹鶴政孝の名前を聞いたこともあるかと思います。一筋にウイスキーを愛し、生涯をウイスキーに捧げ、これまで成し遂げた数々の偉業は今もなお語り継がれています。

では彼が日本に本格ウイスキーを誕生させるまで、どのような人生を歩んできたのか知っていますか?

今回は「竹鶴政孝」という人物について取り上げ、波瀾万丈の生涯を振り返っていくとともに、生前もっともおすすめしていた「ウイスキの飲み方」も合わせて紹介していきます。

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竹鶴政孝とは


竹鶴政孝とは、ニッカウイスキー社の創業者です。1894年(明治27年)に生まれ、享年1979年。

2014年放送されたNHKのテレビドラマ『マッサン』のモデルとして取り上げられるほか、日本に初めて本格ウイスキーを誕生させ、ウイスキー文化を国内に広く普及させた立役者として知られています。

ウイスキー業界に貢献した功績より黄授褒章や北海度余市郡余市町名誉町民、瑞宝章のほか、北海道の経済や文化の発展にも貢献したことで北海道開発苦労賞が贈られています。

これまで数々の偉業を成し遂げたことによって「ウイスキーの父」と讃えられ、ウイスキーを語る上に欠かせない重要人物なのです。

竹鶴政孝のストーリー


日本にウイスキーを誕生させるまでの道のりは、けっして平坦なものではなかったのです。竹鶴政孝が歩んできた軌跡を辿ってみましょう。

生まれ育ちは「安芸の京都」

明治27年、竹鶴政孝は9人兄弟の三男として生まれ、江戸時代から酒と塩の名産地であった「安芸の京都」を異名に持つ広島竹原町で育ちました。

家は成井川の畔にあり、本家は享保時代から続く酒屋「竹鶴酒造」。酒を作る傍ら、塩田も作ったり、製糸業も営んでおり、当時から「竹鶴」という名の酒を販売していました。

物心がつく頃からお酒に囲まれる環境下で育てられ、お酒に対する厳格な父からは「酒は作る人の心を移るもの」と教えられていたため、お酒に対するこだわりはこの頃から別格でした

芽生える洋酒への興味

大正2年、家業を継ぐ予定だった兄たちは醸造科を嫌ったため、唯一醸造科を持つ大阪高等工業へ進学し、跡継ぎとなる決意をします。

しかし卒業を控えた直前、竹鶴政孝は自分の人生に疑問を抱き、「一度でいいから、洋酒作りをしてみたい」と思うようになります。

そう思い経ったらもう誰にも止められません。すぐさま、模造ウイスキーや寿屋の赤玉ポートワインの製造元として知られる当時の第一人者であった洋酒メーカー「摂津酒造(現・宝酒造)」の常務をされていた岩井喜一郎に頼み込んだのです。

岩井喜一郎とは同じ学校の醸造科に卒業された1期生で、竹鶴政孝の大先輩にあたる人物。

岩井を通じ、話を聞いた社長・阿部喜兵衛は竹鶴政孝の情熱に心打たれ、快く入社を許してくれたのです。

念願の洋酒づくり

家業を継ぐまでの8か月間という約束を交わし、寝る暇も惜しまず酒作りと研究に励んだのです。次第に周りから信頼されるようになり、新人でありながらも洋酒関係の主任に抜擢されます。

ウイスキーをはじめ、葡萄酒やリキュールといった洋酒を作り、出荷させるという仕事をこなすようになるのですが、特に品質に対するこだわりは人一倍強く、それを感じさせる出来事が「赤玉ポートワイン事件」。

ある夏、店頭に並べたぶどう酒が殺菌の不十分によって、暑さのあまりに爆発する事件が起こりました。しかし、竹鶴政孝が作った赤玉ポートワインだけが一本も割れなかったのです。

こうして赤玉ポートワインの品質の高さが注目されるようになり、品質に対する職人魂が周知されるようになります。

ちなみにこの時期にサントリーの前身・寿屋の創立者にあたる鳥井信治郎と知り合ったのです。

スコッチの本場で修行

洋酒づくりにのめり込む8か月。退社後しばらくしたある日、阿部社長に「スコットランドでモルトウイスキーの勉強をしないか?」と打診されます。

というのも、阿部社長は当時日本における模造ウイスキーの未来に難色を示し、本格ウイスキーの技術を導入しなければと考えたからです。

竹鶴政孝は身に余る思いで引き受けたのですが、家業を継ぐ予定だったわけですから、両親はもちろん大反対。見兼ねた阿部社長は両親を説得させ、実家の酒屋は親戚に譲ることとなります。

ウイスキー漬けの日々

大正7年7月、阿部社長や両親、鳥井信治郎などに見送られ、単身赴任でイギリスに渡ります

イギリスに上陸してまもなく入学したのが「グラスゴー大学」。応用化学科のウイリアム教授のサポートによって、当時ウイスキーのメッカと呼ばれていたローゼス地区に下宿することとなります。

毎日汽車に乗ってグレンリベット蒸留所(現ロングモーン蒸留所)に通い、実習を重ねます。

実習中はとにかく熱心で、人が嫌がる作業でも率先して買って出たのです。なんとかウイスキーを日本に持って帰りたい一心で、がむしゃらに勉強し、どんな些細なことでもノートに書き留めたといいます。

これがのちに竹鶴ノートと呼ばれ、来日したイギリスのヒューム外相より「ひとりの青年が万年筆とノートだけでウイスキーの醸造技術を盗んでいった」とジョークにされるほどでした。

さらにウイスキーの閑散期間はフランスのボルドーに渡り、ぶどう酒の勉強もしました。リキュール名門キューゼニア社も見て回り、渡り鳥のような日々は大正9年5月まで続きました。

ブレンドの特訓をうける

それから大学に戻ると、ウイリアム教授を通じてイネー博士のいるカンベルタウンの蒸留へ行くことになります。カンベルタウンとは、グラスゴー西南にある十数個の蒸留所がひめしあう小さな町。

ローゼス地区で受けた職人的指導に対して、イネー博士の元では学問的な研究やブレンドの訓練を徹底してうけました。約6ヶ月ではあったものの、竹鶴政孝はウイスキーづくりに対する自信が湧き出たといいます。

数年の留学を終え、妻となるジェシー・ロバータ・カウンを連れて4年ぶりに帰国することとなります。

愛妻リタと出会い

その妻となるジェシー・ロバータ・カウンこそが、竹鶴リタ竹鶴政孝が生涯にわたり愛し、竹鶴政孝のウイスキーづくりに献身的にサポートした女性でもあります。

リタと運命の出会いを果たしたのは、リタの妹エラのおかげでした。エラとは竹鶴政孝のグラスゴー在学生で、父はグラスゴー大学出身の医者。

父が大の親日家ということもあり、エラが家に招いてくれたのを機にリタと意気投合し、赤い糸で結ばれます。

しかし、結婚を許してくれると打算にあったリタの父が不慮な急死により、この国際結婚はリタの母に大反対されます。もちろん竹鶴政孝の両親も同じでした。一時、お家断絶騒ぎまでに発展したのだとか。

それでも二人の固い意志や周りの方の説得によって両親は次第に理解を示すようになり、二人は祝福されてイギリスで結婚式を挙げ、生涯をともにする夫婦となったのです。

ウイスキーづくりの夢も叶わぬ

大正10年11月、帰国した竹鶴政孝は摂津酒造の技師長として勤務します。留学経験を活かし、本格的なウイスキーづくりの計画を阿部社長に持ちかけます。

しかし、日本は大戦後の大恐慌の真っ只中で、摂津酒造には新しい工場を構える余力なんて残っていなかったのです。

ウイスキーづくりの夢もむなしく、「ウイスキー造りが出来ないのであれば技師長として高給をもらうわけにはいかない」と思い、長年世話になった摂津酒造を惜しまれながらも退社します。

退社後は中学校の化学教師を勤め、一旦ウイスキーから離れた浪人生活を送ります。

ついに、夢が叶う

大正12年、赤玉ポートワインを中心に順調な売れ行きを見せる寿屋の鳥居信治郎は、さらなる商品を生み出すべく本格ウイスキーづくりに意欲を示し、竹鶴政孝にウイスキーづくりの依頼をします

こうして話はとんとん拍子に進み、同年6月に寿屋の技師として迎えられます。

そこで、

・空気が綺麗
・上質な水源や川がある
・年間を通して気温が穏やか
・ピート地帯

を条件に蒸留所の土地を探しあてたのが北海道余市。しかし会社の利益を守る鳥居の意向によって、蒸留所は大阪付近で探すことになります。同じ条件をもとに、建設されたのが山崎蒸留所です。

日本初となる本格ウイスキーが誕生

昭和4年、5年熟成「白札サントリー」が販売されます。本来は10年の熟成を待っての発売予定ですが、税金問題や会社の資金問題により5年早めた形となってしまいます。

日本初となるウイスキーが誕生し、大きな話題を呼びましたが、結果的にあまり売れませんでした。理由はウイスキー特有の焦げ臭さが日本人にウケなかったからです。

理想的なウイスキーではないものが世に出回ったことで、品質に葛藤する竹鶴政孝は独立のために12年勤務した寿屋を退社します。

ニッカウイスキー社を創業

昭和9年、竹鶴政孝は独立し、待望だった北海道の余市に蒸留所を建設。名前は「大日本果汁株式会社」と命名します

原酒が出来上がるまでに非常に長い年月を要するために、原酒が完成するまでに余市の特産品リンゴをジュースとして販売します。

しかし、リンゴジュースの売れ行きは鈍く、原酒が完成する間は悪戦苦闘の連続だったのです。

昭和15年、待ちに待った最初の原酒が完成し、満を持して発売した最初のウイスキーが「ニッカ」。銘柄名は、社名の日果にちなんだものです。

世界大戦や品質競争に巻き込まれる

デビュー作が発売後は順風満帆かと思いきや、会社は世界大戦の影響や製造規制の打撃をうけます。

昭和24年、「酒類自由販売」と「雑酒」の公定価格が廃止され、税金さえおさめば原酒0%の使用でも「ウイスキー」と名乗れる時代となってしまいます。

低価格ウイスキーの出現により、さらに追い打ちをかけるように一級ウイスキーの人気が下落します。

これまで一級品にこだわった竹鶴政孝は、経営難から社員の生活を守るため、三級品の発売を余儀なくされます。

それでも質の良いウイスキーを飲んでほしいという思いから、法律で許されるまでギリギリのラインまで原酒をボトリングしたのです。

世界的一流メーカーへと成長

やがてウイスキーが広く普及されるようになり、次は品質競争時代へと突入します。ここからがニッカウイスキーの本領発揮。品質で勝負し、着実にファンを増やしていきます。

積み重ねてきた努力は実を結び、ウイスキーの事業はようやく軌道に乗ります。

昭和27年、社名を「ニッカウイスキー」へと変更します。

昭和44年、余市蒸留所とは異なる個性を求め、宮城峡蒸留所を建設します。

ハイランドタイプのモルトウイスキーに続き、ローランドタイプのグレーンウイスキーやブレンデッドウイスキーを次々と打ち出し、国民に愛される一流ウイスキーメーカーへとのし上がったのです。

そして事業成功後も竹鶴のポリシーである「品質に対する追求」は途絶えることなく、ニッカ社へと受け継がれるようになったというわけです。

わかりやすく年表でおさらい

明治27年 9人兄弟の三男として広島県竹原市に生まれ、厳格な父のもとで育つ
大正5年 大阪高等工業学校醸造科卒業し、摂津酒造へ入社、鳥居信治郎と知り合う
大正7年 イギリスでグラスゴー大学にて留学、滞在中妻リタと結婚
大正10年 日本へ帰国し、摂津酒造で技師長を勤むもウイスキー計画が白紙化により退社
大正12年 寿屋へ入社、ウイスキー製造に従事、山崎工場を建設
昭和9年 独立し、北海道余市で大日本果汁株式会社を創業
昭和15年 ニッカウイスキーを発売、社名をニッカウイスキーに変更
昭和44年 異なる個性を求め、宮城峡蒸留所を建設

 

竹鶴政孝が推奨する飲み方


ウイスキーに対して並みならぬ情熱を注いできた竹鶴政孝なのですが、生前もっともおすすめしていたウイスキーの飲み方は「ストレート」です。

酔うための酒ではなく、味わうための酒としてじっくり時間をかけて楽しむことを前提とし、ストレートであればウイスキーの持つ香りが楽しめるだけでなく、モルト由来の味わいをダイレクトに感じることができます。

また毎日ウイスキーを飲みたいヘビーユーザーには水割りを推奨しています。水割りであれば胃を痛めるのを和らげることができ、なおかつウイスキーの風味を楽しむこともできます。ちなみにウイスキー1に対し、水を2で割るのがベストだそうです。

商品紹介


今回は、竹鶴政孝が愛飲していたウイスキーと本人執筆の自伝書を紹介します。

ハイニッカ

ハイニッカは、2級ウイスキーの時代から酒税法の限度一杯までモルトを使用し、カフェグレーンをブレンドしたニッカウイスキー社のロングセラー商品。

やわらかなモルト香とカフェグレーンの香ばしく軽やかな香りが調和され、甘さとコク、ほのかなピート、しっかりと伸びのある味わいが特徴。またほのかにビター感、すっきりとしたキレのよい後味が堪能できます。

竹鶴政孝が晩酌に愛飲しており、つまみとして薄焼きした煎餅を合わせています。パリパリした食感と醤油の香ばしい香りが一層ウイスキーのアロマを引き立ててくれるようです。

竹鶴ピュアモルト

竹鶴政孝の名を冠した銘柄です。「余市蒸留所」と「宮城峡蒸留所」の原酒をモルトのみで仕上げたブレンデッドウイスキー。

人気の高さゆえに長期熟成商品の多くは終売となっていますが、現在唯一購入できるリニューアル版のノンエイジウイスキーです。

竹鶴シリーズの中でリーズナブルな価格帯で購入ができるため、気軽に楽しめる商品となっています。

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竹鶴
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ウイスキーと私

1979年に発売された竹鶴政孝の自伝書。約一か月間にわたり日本経済新聞に連載された「私の履歴書」をもとに補筆された本です。

竹鶴政孝の幼少期や渡英中の秘話、リタとの思い出、ウイスキーに対する思いが赤裸々に綴られています。竹鶴政孝をより深く知りたい方はぜひご一読してみては?

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まとめ

今回は「竹鶴政孝の歴史」について紹介しました。

生涯にわたりウイスキーに情熱を注ぎ、品質を追求する精神が受け継がれた結果、ジャパニーズウイスキーは世界的な知名度を手にしたと言っても過言ではありません。

彼の人生を知った今、味わうウイスキーはより一段と深いものになったのではないでしょうか。